読める本も、読めない本も、それで十分
こんにちは。
今週はサポートメンバーの方に読んでいただく続報レターをお届けする予定でしたが、なんだかそれがぴんとこなくて、とりとめない雑感を半休的に書きました。
『「歩く」を巡る冒険』の迷える続報は次回以降にお届けします。楽しみにしてくださっていた方、ごめんなさい(前回の終わりは靴屋さんに着いたところ)。
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こんなふうに「話が変わる」ってありませんか? 思っていたことと違うことを話したり、聞いたりってこと。つくづく人がなんの話をするか、したいかってものすごく繊細なところが影響するんだなって思うのです。
体調もそうだし、なにより気分がすごく大きく関係する。気分というのは非常に曖昧なものだけど、気分を左右するのはわりに強くしっかりした事実であることが多い。
たった今だと国政が個人のわたしの心身を強く揺さぶっている。これは「今」という以上に、「未来」が関わっているからだろうと思う。
わたしが生きる社会の、そこで生活する自分の姿を想像して、自分が暮らすこの国の行き先が不安でたまらない。怒りもあるし、痛みを感じて引き裂かれるような悲しみもある。やりきれなさに押しつぶされそうになって、時々泣きそうになる。
でも同時に、そんなふうに不安を感じる自分に「この不安、抱いて当然だよね」と奇妙な落ち着きも感じている。強く悲観している具体的な要素もあるけれど、「どうなっても最後まで諦めないぞ」という強く確かなものも自分のなかに感じている。
なにを諦めないのかは、その時々で変わるのだろう。その時々でわたしは諦めない。諦めないと思うことは、絶対に手放さないぞって。
なんかもう祈りのようだよ……。
と、ぐちゃぐちゃと入り乱れつつ、日常生活はできるだけ淡々とすごそうとしている、そんな今日この頃です。
皆さんはいかがでしょうか(と一人ひとり聞いて回りたいほどですよぅー)。
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「読む」ものにも影響が出ています。
例えば、少し前のこと。ひょんなことからジェイン・オースティンにハマって(わたしには初オースティン)、『高慢と偏見』『エマ』『ノーサンガー・アビー』と、ちくま文庫版を立てつづけに読んでいたんです。

ジェイン・オースティンの描く物語が、まるで韓国ドラマで見るような「ラブコメの王道」ということに驚き(もっと小難しい高尚な感触だと思い込んでいた)、どの作品も書きながらむふふと笑っているのが見えるようなノリノリの軽妙な筆で、物語の緩急は絶妙だし、人物分析が鋭くて脇の一人ひとりまでキャラが面白い。ほんとよくできてる(誰に言ってるんだ)。さすが長く読み継がれている作品って、つまりシンプルにおもしろいんだなって深く納得した。
「どんどん読ませてもらえる」って最高に快感で、わたしはすっかりテンションが上がってしまった。それで、読む少しハードルを上げてみたくなったんです。自分は今、19世紀のイギリス文学を読む筋肉がついて、それがうまく動いてるようだ。じゃあ、も少し負荷をかけたトレーニングをしてみようって感じで。
そこで、日本でももうすぐ映画の公開が始まるって話題になってたエミリー・ブロンテの『嵐が丘』に着手した(マーゴット・ロビー主演作、今はもう公開になっています)。言わずとしれた世界の名作。でも、実は未読。東海テレビの『愛の嵐』は見たけれど。
と新潮文庫版を入手して、読み始めたところ、お、お、おっも……。まるでぬかるみに足をとられたように、文字を追う目がまったく進まない……。
ジェイン・オースティンの文章が軽快で楽しげなワルツだとしたら、エミリー・ブロンテの筆はベートーヴェンの交響曲第7番(クラシックはのだめ愛読程度なので適当でごめんなさい)。重すぎる……。うぅぅ。
早々に諦めそうになりつつ、でも匍匐前進するように意地になって一行ずつ読んで、なんとか序章のあたりを越えたら、急に地面が固くなってきて足取りが軽くなり(それでも重いけど)、とりあえず足が上がり、ひとまず前に進めるくらいにくらいにはなってきた。
よかった……。読めるって嬉しいから。