フィジカルなセルフケアの話(後編)1万歩の女
ひょんなことから「道具を手にした」。それはある本を読んでいたときのことでした。そんな後編です。
前編はこちら
いきなり全然話は変わるのですが(えええ!?)。
昨年は、このレターで韓国ドラマについて書いたものの、ハマれる韓国ドラマが『涙の女王』以降、実はぴたっと消えてしまい、お昼に時々ザッピングするもピンとこず、とりあえずでやる気も思い入れもなくテンション低く流し見して、また探してもやはりピンとこず……そんな韓ドラハズレ年だったんです。
なんか「もう今年はないわ」と諦めた阪神ファンみたいな心境でした(あくまで想像です)。
諦めつつも、懲りずに見ている韓国ドラマですが、毎回のラストは渾身の「え!? まぢか」展開がお約束で、それもあって、なんとか見続けられるのかなあ。
なんてことを思い出したのは、わたしのレター前編の終わり部分は、そういうパターンに影響されていたのだな。「匂わせ」みたいな。
思いがけない発見ってあるものですね。どんなことも無駄にならないのかも。想像してなかった「きっかけ」みたいなものも、ふとやってくるものですよね。
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韓国映画は30代の頃から見ていたけれど、ドラマまでどっぷりハマるようになったのは50を前にした2020年のコロナ禍のこと。
詳しくいうと、その後メンタル絶不調に陥った最中、仕事部屋を借りて、そこに置いたiMac24インチのデスクトップの液晶をミニ映画館のようにして、寝転んでひたすら見まくっていた頃だ。2021〜2022年は本当に見まくっていた(仕事もあまりできなかったし)。
でも、考えてみればそのおかげで韓国カルチャーを怒濤の情報量で浴びて、そんな流れで韓国文学と出会っていった気がする。寝転んで、生産性のなさに凹んだりしていたけれど、あれも無駄になっていないのだなあ。
なかでも、韓国文学がぐっと自分に近づいたきっかけとして「くっきり」覚えている一冊が、斎藤真理子さんの『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス)だった。
2024年の「初読み本」となった一冊で、歴史や文化、さまざまな背景から、韓国文学を深く紐解いていくこの本を読みながら、自分が知らないことの多さ、見ていたはずなのに「見えていなかった」ものの多さに震えたことを覚えている。
内容もそうだけど、斎藤さんの語り口が強く印象的で、なんていうんだろう。切れ味がいいけれど、刀が泣いている。泣きながら切る。あるいは、切らない。そんな筆にもしびれた。この人は魂を削るように書く人だなと感じた。
斎藤真理子さんが翻訳した韓国文学を意識して読むようになり、さらにキム・ハナ『女ふたり、暮らしています。』などを訳した清水知佐子さんのファンにもなって、訳者で本を選ぶ「翻訳者買い」が増えていった。
好きな韓日翻訳家が増えていき、作品を選ぶ楽しさもどんどん加速するなかで出会ったひとりが小山内園子さんだった。
ク・ビョンモ『破果』(岩波書店)も「小山内さんだから読もう!(おもしろいはず)」と手に取ったことを覚えている。
で、実は今日のレターの本題に、ようやく辿りつくわけですが、今年に入って、神戸の本屋「1003」さんで目があって入手した『2人は翻訳している』(タバブックス)という本がある。

小山内さんと、同じく韓日翻訳者のすんみさんとの共著で、それぞれが「翻訳」をテーマにエッセイのようなものを順番に書くといった感じで、往復書簡ともまた違う、二人が親密に話をしているのを聞いているような気持ちになる本なんです。
いつも目に入る場所に積んでいて、ふと読み始めたのがこの2月に入ったくらいのこと。もう、いきなりめちゃくちゃいい。翻訳に限らず、仕事、社会、お二人の人生がみっちり詰まっている。
あることについて深く考えると、言葉はむしろすらすら出ないのだけれど、そういう気配まで届いてくる。ものすごく読みやすい、行き届いた文章なのに、そんな気配があるのがすごいとも思う。