「書かれたもの」「ことば」を考えこむ梅雨入りの候
皆さんのお住まいのあたりは梅雨入りされたでしょうか。
先週末の神戸は梅雨の蒸し蒸しじとじと雨というより、台風の子分の子分みたいな雨風が吹く日もあって、ちょっと肌寒いくらいで、なんだか夏の終わりみたいな天候でした。
そんなお天気などのせいもあるのか。
最近、時々、いまが何月なのか、今日が何曜日なのか、一瞬わからなくなることがあるんです。
こないだの雨の日のこと。結構な風に負けじと、武具でも抱えるように傘を短く構え、背中を丸めながら向かい風に対抗しながら歩いていると、わたしはなぜこんな道を歩いているのだろう(家の近所だからです)、なぜこんなところに住んでいるのだろう(結婚した人が住んでいたからです)、なぜわたしはわたしなんだろう(問いが大きすぎてわからんわ)……混乱までいかないけど、軽く呆然として気が遠くなるような感覚に陥りました。
その際、強く覚えているのは、すれ違う人が、「自分ではない」ことにも、うまく言えないけれど、悲しいような気持ちになったことです。
この男性(誰か知らんけど、おじさんと呼ばれるたぶん同世代の年齢)とわたし。生まれた場所も時間も違って、生きてきたなにもかもが違って、こうやってすれ違う瞬間に、あまりにも縁もゆかりもない他人。これからどこに行き、何をするのかもわからない、何一つ知らないまま、この先もう二度とこんなふうに近づくこともないのだろう。たった今は、ほとんど家族くらいの距離に立っているのに。
わたしは、わたしたちは、なんて孤独に生きているのだろう。
その孤独をいつも忘れて生きていることが、怖くて泣きそう。この怖さはなんなんだろう……。
二度と会わないおじさんと別れたおばさん(わたし)は、帰宅して裾が雨ですっかり重たくなったデニムを脱いで、雨で冷えてしまった身体に熱めのシャワーを浴びた。清潔な乾いた服に着替えて、しゅわしゅわ泡がたつ炭酸水をぐびぐびと飲んでいると気持ちがよくなって、怖くて悲しい気持ちが薄まった。同時に、孤独がどこかにしまわれた。身体のどこか奥のほうに。出てきたときのように、いつの間にか、ひっそりと。
寒いとか、濡れて冷たいとか、湿ったデニムが重いとか、身体的な不快というのは、孤独を不安としていともたやすく呼び寄せる。
だから、蒸し蒸ししたらクーラーの除湿にスイッチをいれて、喉がかわいていなくても、いつもどこか汗ばんでいるような日は、気づけばこまめにちゅうちゅうストローで吸って麦茶を飲む(ストローで飲むほうがわたしは量が飲める)。
そうやって、身体的不快が呼び寄せる孤独を遠ざけることは、わたしの孤独と付き合う方法の一つなんだと思う。
このところなんとなく良い感じに距離の取れていた孤独をこうして引っ張り出して、眺めてしまうのは、吉本ばななさんのnoteを読んだことも大きいかもしれない。読まれた人がきっとそう感じられたように、とてもとてもかなしい話だった。その他の感情を抱かれた方も多いでしょう。傷つかれた方もおられるかもしれないし、救われた部分があった人もいるかもしれない。そういう複雑な出来事と心情が絡み合った、そして絡んだままの文章でした。
※あえてリンクは貼りません。読む人はもう読んでるだろうし、読まない人は読まないでいいとも思うので。