背に腹はかえられない。腰は?
こんにちは。
梅雨入りしてから毎日じとじと長雨が……という感じではなく、ツーツートン、と間隔を置きながら時々晴れてくれるので、洗濯ものがなんとか干せている神戸です。
そういえばわたしは、夜寝る前は「明日は洗濯が干せるのか」、朝起きたら「今日は洗濯が干せるのか」と、朝から晩までというより、朝と晩になると年がら年中洗濯もののことを考えています。
なんとなくですが、同じ家で暮らす家人はそこまで洗濯もののことを考えているようには思えない。だからなのだろうか。わたしが洗濯を干し終わったあとに、気軽に洗濯カゴに新たな洗濯ものが放り込まれているのは。
からっぽのはずのカゴにないはずの衣類を目にしたときのあの脱力感。そして湧き上がる、言いようのない怒りのようなもの……。
「わたしの人生を費やした時間」を円グラフで描いたとき、「その他」にくっつくようにある、ケーキを0.001ミリくらいに薄切りしたようなほんの数パーセントの部分が「洗濯」の項目になってんじゃないかな。
このレターでも、冒頭からここまでひたすら洗濯ものについて書いている。
おそらく「洗濯もの」というのは、わたしの人生にとって、あるいは、わたし自身のなにか(性格とか生き方とか)を象徴しているものなのだろう。思うんだけれど、日常の、なにかの小さな行為って、結構「人生そのもの」だったりするんじゃないだろうか。皆さんも、そんなものがあったりしませんか。例えば「食卓テーブルを拭くこと」とか「落ちている衣類を拾う」とかそういうの(ただの例です)。
さらに引っ張ってしまって恐縮ですが、わたしは「洗濯」が嫌いではありません。
汚れた衣類と洗剤を入れて洗濯機を回し、がたがた(洗濯槽の回転音)、ざざざざ(流水音)、うぃぃぃぃーん(脱水音)、ぴぴぴぴ(終わったお知らせ音)を聞いて、ベランダに干すまでは好きな作業でもある。
とくに干すのは好き。どこになにをどういう並びで配置するか、編集的な面白ささえ感じる。夕方、すべてがそれなりにうまく乾いて、衣類に顔を近づけるとあの太陽の匂いが鼻腔を抜けていくときは、達成感を抱く。幸せさえ感じる。
だけど、そのあとの「洗濯ものをとり入れる」以降は、一転、心のシャッターががらがらっと閉じてしまう。洗濯ものをとり入れるのは、決まって夕方(まあ、そうなるよね)。やらなきゃいけないことがたて込んでいる時間に、「やらなきゃいけない」タスクが自分におっかぶさってくるように気が滅入り、洗濯ものに対するテンションが一気に下がる。
百歩譲って(自分に)、とり入れの工程は手早く雑になっても、ぱぱっとしてしまえることなので、なんとかこなす。だけど、そのあとの「畳む」「収納する」が心の底から、面倒くさい。これを書きながら、ベランダの洗濯ものに目をやって、あれを畳んでしまうのかと思うと、「生きるってしんどい」みたいな気持ちになるほど……。
とはいえ、数年前に心身の不調を体験して以来、洗濯ものを「畳む」ことをだいぶ手放した。リビングのど真ん中。センターポジションに置かれたソファを、「とり入れた洗濯置き場」にすることを許した。自分に。
とにかくそこに置いておけば、畳むまでしなくていい。靴下とか下着とか、探すのが相当大変なほど積み上がっているけれど、もうええねん。
あまりに大量すぎると、うまく探せなくて、「きーーーー!」となって、洗濯ものを思い切り床にぶちまけて、そこから探しものを拾いあげて、また積みなおす、ってこともやる。この「衣類を床にぶちまける」って、なんかこう、自分がドラマとか映画のなかで生活を演じている人になったような感覚があって、どこか不思議な快感も混ざり、まあ、それはそれでええねん。
こうして生活に折り合いをつけていけば、ええねん。
ああ、またこうして人生の何パーセントかの時間を「洗濯もの」に費やしてしまった。読んでくれた皆さんの時間も……申し訳ない。
今日のレターも実にさえない。最初にお伝えしておきます(ごめんなさい……)。
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先週はいろんな出来事があった。公開を待ち構えていた濱口竜介監督作『急に具合が悪くなる』(原作は宮野真生子&磯野真穂さんによる往復書簡)を、初日、初っ端回で無事、見ることができた。
「無事」と書いたのには個人的な理由がある。