夏休みの宿題と母からの課題
夏休みが終わって、というか、もう学校に行ってない、通っている子どももいない自分には具体的に関係はないけれど、ほっとするような、また新学期かよ。しかも2学期か……。いやいやいやいやいや、ただ9月になっただけやっ(頭の奥のいろいろかき消す)。
という気分の9月1日。皆さんはどんなお気持ちでお過ごしでしたでしょうか。
唐突ですが、わたしは夏休みの宿題をしない子どもだったのです。
でも、しないにしても「締切感」はもちろんありました。最初からやらないと決めていたわけではなく、結果として「できない」ということが毎年だったんです。絵日記的なもの、漢字の書き取りみたいなこと、自由研究。ぜんぶできなかった。
久しぶりに振りかえってみました。宿題黒歴史みたいなものを。
7月の下旬、お休みが始まる頃になると、いつも「夏休みの宿題計画」を立てさせられました。はっきり覚えているのは、わたしは常にものすごくキツい計画を立ててしまったことです。
朝6時に起きてラジオ体操に行き、犬の散歩をしたりして、9時から12時まで「勉強」して、午後はお昼を食べたあと、プールに行ったり少し遊んでから、2時間ほどまた「勉強」をするというプラン。
計画をノートに書いてみると、「一日5時間近く勉強する自分」に「すごい!」と感動しちゃって、もうすでになにごとかを成し遂げたような達成感さえ抱いて、鳥肌が立ちそうにうっとりしていました。
そんな7月の夏休み開始日から、1日、2日、一週間とすぎるうちに、言うまでもなく「計画」はなし崩しです。ただ、10年と少しとはいえ「自分」をやっているので、そういうのは「想定内」でした。わたしはそれを見越して、「遅れ」を8月に挽回できるように、「一日5時間近く勉強する」予定を立てているのですから。
8月のお盆を過ぎるくらいになると、うっすら気づいてきます。ああ、もうここから5時間では挽回できないな、と。このキリキリ身体のどこかが痛むような感触も、初めてじゃないと知っている自分。午前の3時間はそのままで、午後も3時間にしよう。「一日6時間」なら巻き返せるぞ!
6時間はできなかったと思うけど、7月30日と31日くらいは、なにかやってたと思います。その2日だけ必死に。もちろん全方位間に合わないのですが。
そんなふうに、わたしは宿題をしなくても、宿題のことは夏休み中ずっと考えていました。
でも、「シュクダイ」という抽象的な何かをぼんやり怖がってるような感覚だったと思うんです。宿題をやる子は、ドリルP3からP5とか、もっと具体的なモノと向き合うことができる子。
「宿題をしなさい」と言われてもできなかったけど、「ドリルを3ページ」なんて計画を立てておけばよかったんだろうなあ。
「宿題をしなさい」という言葉の解像度を上げることが、必要だったんだろう。40歳くらいになって、たぶん、そのことに初めて気づいた気がします。
「勉強しなさい」という言葉も、すごくむずかしいように思うんです。勉強のできる子(やりたいと思える子)は、例えば「お弁当を食べる」という表現から「卵焼きの甘さ」とか「ごはんのふりかけは卵多め」とか、「具」を具体的にイメージできるような感じでしょうか(うまく言えない)。「勉強」とか「仕事」とかってほんとむずかしい言葉だなあ。わたしには「宿題」もそうだったというわけです。
さて、宿題ができないまま新学期を迎えると、当然のように怒られる。ほとんどの先生が、「今からでもやりなさい」と再提出をうながします。例えば一週間後に再提出といった具合に期日も指定されます。
そんなん間に合うわけないやん。40日あってできなかったことが、7日でできるわけないやん。夏休み中と違って、学校に行かなきゃいけないので、放課後とかそんな時間しかないのに、寝ずにやっても無理やん。
先生には「はい、やります、ごめんなさい」と謝るのだけれど、わたしは返事をする前から実は諦めていて、一ミリも「やろう」なんて思わなかった。もちろん一週間後にまた怒られる。呆れて言葉もないという表情で。当然です。同様のことがもう一サイクル繰り返されたと思う。
そのあたりになると、もう9月もなかば、夏休み気分がすっかり抜けて新学期がひたすら進んでいるので、先生もわたしもだんだんと「夏休みの宿題」に対して関心が薄れてくるんです。そして、フェードアウトします。宿題は消えてなくなる。やった子には「したもの」として残るけど、しなかった子にはただなかったことになるだけ。
わたしね、「大人になって働くようになったら、どうするつもりなのか。宿題もしない子はまともな大人になれないぞ!」よく先生からそんなふうに怒られました。でもあれは、大人になってからのわたしは仕事をしゃかりき頑張る人になったので、あんまり意味のない脅しだったなと思う。
でも、当時の自分にこうは思うんです。
「毎日、自分で決めた目標にむかって、こつこつ何かを継続する。その楽しさを覚えられたらいいね。今から身につけられたら、それは一生ものの、自分にとってよい力になるよ」って。
そんなふうに言ってくれる先生がいたら(いたかもしれないけど、受け取れていなかった)、宿題をやったかもしれないなあ。それは、大人になってからのわたしに、どれほど大きな力となって、自分を支えてくれただろうか。そんなふうにも。
小中学校の9年間に、そのことが身につかなかったことは、振りかえると残念です。でも、大人になってから、ちょっとずつイメージできるようになったので、「人生ってなんでもタイミングあるよね」と自分を慰めてもいる。
そんなわけで「宿題はできたらいいよね」と毎年、思うのです。正直な気持ちで。でもできない子の気持ちもわかる気がします。やる意味がわからないってことが、わかるような。
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話が少しずれますが。
わたしは宿題はしなかったけど、母親から毎日、毎朝出される2つの「課題」がありました。それはやっていました。やらされていた。逃げることができない「やるべきこと」を課せられていたのです。