本、本屋さん、図書館。本のある場で起きる「良い循環」。その一助を担いたい、わたしからのお願い
昨年(2024年)3月に『元気じゃないけど、悪くない』という本を上梓した。

三刷の帯文は、東京「蟹ブックス」の花田奈々子さんが雑誌『ESSE』に寄稿くださった書評からの一文。「調子悪すぎ、もうダメだ〜」という仲間に届いてくれたらいいなあ
帯にあるように、テテンコ・モリの人生の大波小波に翻弄されて、ぐっらぐらに揺れてポキンと折れた「わたしの心と身体」の変化をめぐる、物語のようなノンフィクションであり、ケアの実践書になっている。
この本に限って、実は発売記念トークイベントをしていない。わたしの体験や、感じたことは本で一冊になるほど詳細に書いていて、もう「話すことがない」、いらないよねと思ったからだ。
逆にわたしの話を聞いてくれた人の「話を聞きたい」と考えた。わたし自身、話を聞いてもらうことで、ひたすら助けられた3年間の話でもあるからだ。
そもそも「元気じゃないけど、悪くない」なんてフレーズが気になった人のことが、わたしは少し心配というか、気にかかる。だって、自分が不調のどん底にいたとき、思い切り気になったフレーズだっただろうから。この本を読んだり、読もうと思っているけどまだ読んでなかったりする人の話を聞いていきたいと思うんです。
そんなことを発売前にミシマ社の担当編集の角智春さんや三島邦宏さんに相談すると、「著者発信型のトークイベント」ではなく、「読者参加型イベント」を企画できたらいいですね。読んだ方の話を、聞かせてもらえるような場を……なんて流れがまずあった。
不調の真っただ中の頃、お店の本棚をのぞくのがリハビリの一つでもあった「1003(センサン)」で、ご店主の奥村千織さんに「今度、本が出るんですが……」とそんなことを話していたら、「うちでは時々、少人数の読書会をやっているんですが、たとえば『著者と読む読書会』みたいなイメージはどうですか?」とご提案くださって、本の発売すぐのタイミングで開催してもらえる運びとなった。
今もそうだけど、不調になってからフワフワする浮遊性めまいがある。特に暗くなると目がまわったり、泳いでしまったりしてしまうので、夜の外出はほぼ控えている。通常、1003さんでのイベントは夜(早めの閉店後)開催なのだが、ご配慮いただいて、朝の営業時間前に開けていただいたのも涙が出そうにありがたかった。
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『著者と読む読書会』当日の午前10時、店内は朝の澄んだ空気が透明できらきらしていて、「ハジメマシテ」の関係が多いのでどこかぴんと糸が張ったような心地良い緊張感にも包まれていた。お店の一角にある長テーブルをぐるり囲むように並んだ椅子に、奥村さんとわたしを入れても10人ほどが座ると、お互いの顔が見えて自然と安心もできた。
表通りの雑踏の音も聞こえず、まだしんと静かな朝の気配のなか、ゆるゆると自己紹介。ささやくような小さな声の方も、はきはき大きな声の方も、一人ずつが順番に参加理由を話したり、本で気になったところからご自身の体験を語られたり。繊細な要素も多くて、語りの「声」が重なるごとに場が「しん」と深まっていく。
その朝の風景は、今でもさし込む光まで覚えているし、内容はどこまでも切実で人生が連続しているのに、なんていうのかどこか現実離れしていて夢うつつ。「赦される」という感覚があって、なにに赦されるのかもわからないような……。
数年前から継続していた「オープンダイアローグ」(この話はまた書きます)とも通じるようでもあったけど、異なるようにも思えて、それまで体験したことのない、心の芯がぼわっと震えるような時間だったので、もっといろんな人とこうした場を持てたらいいなとぼんやり思った。
そんなことから、奈良の「ほんの入り口」さん、大阪池田にある施設図書館「ふるえる書庫」さん、岡山にの「スロウな本屋」さんといった本屋さん。オンラインではケアをテーマとした選書に信頼がある「はるから書店」の小黒悠さんにお声がけいただいて、皆さんにお話を聞いて回ったのが「著者と読む読書会」だったのでした。

神戸元町「1003」(写真は2024年7月のもの)。手前の平台のあたりに椅子を並べていただいて「著者と読む読書会」をしました
その読書会から派生して、今も月一で継続開催しているのが「ゲンナイ会」。「元気じゃないけど、悪くない」というフレーズが気になった人が集まって、相変わらず本の内容から離れていっても気にせずに、ただただ、お互いの話を聞き合うような会です(つまり、読んでなくても大丈夫)。
『元気じゃないけど、悪くない』(以下、ゲンナイ本)は、あくまでわたし個人の心身の不調を綴った本だ。なにかにテーマが絞られているわけではなく、とりとめないし、要素も多い。でもそれって当たり前で、人生って、生きるって複雑な要素が絡み合っているからそうなるんだとも思う。
「ゲンナイ会」では、皆さんが話される内容はそれぞれの人生に深くかかわるし、これを読む皆さんが想像する以上に「本」から離れていく。それこそがいいとやっぱり思う。本に縛られずに、話が広がり深まっていくことが。
そんなふうに縛りを解いて「話す」「聞く」をするだけで、10人ほどの参加者の「語る声」から、一人では想像もしなかった場所に辿りつくようなことが毎回起きる。
別になにも起きなくてもいいし、なにが起きたのかも、わからない。いつも会が終わったあと、みんなで「なんだったんだろう、この時間は……」とポカンとなっている。
参加する人が変わると、場が変わるので、毎回全く異なる場になるのもいい。そんななかで繰り返し思い巡らすことのひとつに、「自分は何かをなすために生きているわけじゃない」ってことがある。ずっと「何かをなさねばならない」と思い込んでいたことに気づくというか。
「よく生きよう」とすることは人間の本能としてあるだろうけど、しんどくなるほどそれを自分に課してしまうのはなぜ……とわたしはよく皆さん話を聞きながら、考えている。
「よく生きよう」と思うことを諦めたり、手放すわけでもなく、でも自分だけで固まってしまった考えをちょっと緩めたり、行きづまった思考に小さく穴を開けて流れをよくしたり、誰かのアドバイスからではなく、自分で自分のやり方をみつけるようなこと。話を聞き合うだけで、そんなことがなぜか起きる。
そういえば、これって本を読んでいると起きることではないだろうか。
そんな瞬間に出会いたくて、わたしはすがるように本を読んだり、ヒントを探して開いては閉じてを繰り返している。子どもの頃から、こんなに年になるまでも、ひたすらわたしは本に助けられてきた。どうしようもなく寂しいときも、苦しいときも、もちろんもっと楽しくなりたいときも。
本には力がある。
さらにいうと本がある場所特有の、「場の力」もある。
「ゲンナイ会」を始めたのは、本がある場所、本屋さんだったからこの会の不思議な流れをつくってもらえたんだと、振り返って強く感じる今日この頃なのである。

戦前からの三軒長屋を改築したという「スロウな本屋」さん(岡山)
昨年の初夏から、「ゲンナイ会」は、神戸の山手にある築100年の近代建築の一角で開催している。部屋に本棚があるわけではないが、第1回芥川賞受賞作である石川達三の『蒼氓』では、ブラジルへ移住する日本人移住者の模様が描かれた舞台としても登場する建物で、歴史的にも文学的にも文脈がある。
現在は、アーティストが作品をつくっている公開スタジオがあったり、ポルトガル語(ブラジルの公用語)の教室が開かれていたり。公益性のある目的だと使用料が抑えられることもあり、営利目的ではないゲンナイ会も参加費も低めに設定できて、わたしも負担なく継続できているというわけです。
ゲンナイ会にはかなり遠方からお越しくださる方も多く、SNSなどで全国各地の方から「うちの地域で開催されませんか」とお声がけいただくことがある。遠く北海道の本屋さんから「機会があればうちでも……」なんて声も届く。そんなのこちらの方からお願いしたいくらい、行きたいし、やらせてくださいっていうありがたぎる……。
でも、どこに行くにも交通費はそれなりにかかってくる。参加のハードルを下げたくて参加費を抑えた設定で、しかも少人数だと、わたし自身では遊びに行く機会でもないと難しく、そんなふうに遊んではいられない、贅沢するつもりなどなくても、ただ食べるために必死で書いているというフリーランスの身。なかなか悩ましく、とてつもなく難しい。
先日、奈良の本屋「ほんの入り口」で、2回目の「ゲンナイ会」を開催いただいた。「ほんの入り口」は2023年5月にオープンしたまだ新しい本屋さんで、ご店主の服部さんは独立する前、書店員だった。その頃にひょんなことで知り合って、ひと言で言えば「弱っているもの同士、励まし合っていた」関係性だった。なので気心が知れていて、なんでも相談できる。
会に先立ち、服部さんと本の販売について少し話をした。参加される方は皆さんもうゲンナイ本をお持ちだろうから、イベントだけでいうと、書店側にとって重要な「本の販売利益」は上がらない。それが気になった。
ぶっちゃけて書くと、イベント収益はシンプルに折半。わたしの交通費をそこから出す。「ゲンナイ会」は、ビジネスではなく自分なりの社会活動なので赤字さえでなければいいと考えている。
でも、本屋さんにとってはどうなんだろう。本が売れてなんぼではないか。意義のあるイベントだったとしても、本が売れなければ先細ってしまう。結局、この日は「よければ参加記念みたいな感じで、このお店の本棚のなかから本を選んで購入してください」とわたしからお願いすることにした。
この日参加くださった方の何人かは「本の入り口」の常連だったから、普段からそこで本を買っているはずなのに、その提案に乗ってくれた方が多く、会の終了後もゆっくりと皆さんが本を選ばれている姿を目にして、ほっとした。
そんな本好きな人が多かったからか、この日の「ゲンナイ会」は、詳しく書けないけど、奇跡のような偶然やご縁を感じる出来事がいくつも起きた。
本が生む「場の力」をやっぱりわたしは不思議で面白く感じる。
それにしても本って売れても本当に薄利で、書店がどんどん閉店していくのも、そりゃそうだよな、とも思ってしまうほどなんです。著者であるわたしも、本が売れないと食べていけない一蓮托生の身。自分事として複雑な思いを抱いている。
そんなわけで、集客が弱く、本の実売にもつながりにくい「少人数の読書会」を本屋さんで開催するのは、いろんな意味でハードルが高すぎて、自分の本に関しては見送らざるをえないというのが正直なところ。
でも、本当はゲンナイ会のような集いも、「本屋さんだから来られる人もいるんじゃないか」とも想像し、「場」についてこの一年、ずっと考えてきた。
わたしが不調だった頃、本屋さんなら、まだ行けたから。

奈良、船橋商店街にある「本の入り口」。レジに立つのはご店主の服部健太郎さん
わたしを助けてくれた場所として、ジュンク堂書店三宮店がゲンナイ本に登場する。「1003」さんとはまた異なる距離感で、なくてはならない場所だ。
膨大な量の本を一度に眺めることのできる大きな本屋さんは、「便利」とかだけじゃない存在理由がある。知り合いと鉢合わせすることの少ない匿名性の高さもときに必要だ(ヨレヨレの日は誰にも会いたくないし)。
インターネットでわざわざ拾いにいかないと得られない情報が目に入るのもあるし、インターネットでは辿りつけない知見に、ふいに正面から出くわすなんてこともある。
一人でふらりと寄れて、本の森に紛れ込んでほうっておいてもらえる安心感は図書館も同様だ。本屋さんに比べて最新の本が目に入りにくい(借りられていて棚に並んでいないことも多い)けれど、少し時間が経った本にたどりつきやすいというよい面もある。古今の膨大な「知のアーカイブ」が、リアルに目の前に並んでいるのだから。
もちろん無料で借りられるのは、本読みにはかなりありがたい。子どもの頃から好きなだけ本を読みまくれたのは、片っ端から読んでも尽きない学校の図書室や公立の図書館があったからだし(図書館で育ったといっても過言じゃないほど……)、著者としてその図書館に自著が並ぶのは、錚々たる先輩方に混ぜていただいたようで、光栄でしかない。
古本屋さんによる恩恵も受けてきた。学生の頃は、古本屋の軒先の「100円文庫」にどれほどお世話になっただろう。有吉佐和子さんの『非色』と出会ったのはたまたま開催されていた駅構内の古本市だった。1000円で10冊も買えるので、時間を忘れて必死に選び、購入しなかった本もしげしげ眺めることができた(新刊だとページをめくるのにかなり遠慮があるけれど)。古本だから出会えた本の多さたるや……。だから古本として本が循環するサイクルはとても大切に思っている。
対して、著者となると、例えばブックオフでいくら購入されも直接的な利益が生じないという事実に直面する。むしろ新刊が売れにくくもなる。
古本というのは、誰かが一度購入してくれたから存在する。誰かが新刊購入してくれることで、増刷がかかったりもして、市場に出回る数が増えて、比例して安価に購入できる古本も増えるというわけだ。
ただ、その古本も最初は必ず新刊だった。その新刊が売れてこそ、書き手に収入が生まれ、継続して書くことが可能となる生活を支えてもらえる。書く人が食べられないと、そもそも新刊も、さらには古本も生まれない。図書館に並ぶ本も存在しえない。
著者は新刊が売れない限り、直接的に利益が出ない。「直接的」と何度も書くのは、当然のように「間接的」な利益も生じるからだ。これも小さくはなくて、むしろ大きく循環していることが多い。
だけれど、間接的な利益は著者の日々の生活をリアルタイムで助けてはくれないのも正直なところで、難しく、やっぱり悩ましい。
書き手仲間で率直に話す機会があるが、やっぱりみんな「新刊を買って読んでくれる人がいちばんありがたい」と声を揃える(ほとんど拝んでいる……)。同時に、みんなが「本が循環することは悪くない」とも思っている。むしろよいことなのだと。
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LLCインセクツという出版社が、2016年より大阪・北加賀屋にて開催している「KITAKAGAYA FLEA & ASIA BOOK MARKET」というイベントがある。
毎年秋に行われるこのイベントに「1003」さんをはじめ、個性的な独立系書店や「ひとり出版社」なんて呼ばれるリトルプレスの版元がたくさん出店していて、遊びに行くと最高に楽しかったので、自分も参加する側に回りたい!と興奮して、「1003」の奥村さんに相談して2023年は「お店番」として同行させてもらった。

2023年10月末に開催された「KITAKAGAYA FLEA & ASIA BOOK MARKET」1003さんのブース。お隣は「代わりに読む人」友田とんさんでした(写っている人)
その際、「せっかくだから、自分でもZINEを作ってそれを手売りする!」なんて前のめりで息まいていたものの、結局のところ、わたしはZINEをつくらなかった。なんていうか、「つくるなら、ええもんつくりたい」と思ってしまったのだ。「ええもん」というのはすごく感覚的で曖昧だけど、「自分の想像を超える面白いもの」だ。
わたしが編集者でもあることが大きいだろう。編集者は、書き手、校正者、デザイナー、営業さんなど、「自分にない力」をもっている人を「編む」のが仕事。人と人をつなげて、自分ひとりでは到底生み出せないものを、形にして読み手に届けるのが役目であり、楽しみだ。
自分ひとりでつくるものは自分の「想定内」でしかなく、他の誰でもない、自分が惹きつけられない。「想像を超えたなにか」に揺さぶられたい。だからチームが好きなんだとつくづく思う。自分ひとりではできないこと、辿りつけない場所にいくことが。
そんなわけで、KITAKAGAYA FLEAでは、書店の側の立ち位置で「届ける」を楽しむことにして、友人でもある川内有緒さんのレアなZINEを買い取って、手売りした。
わたしは他のブックイベントでも有緒さんのZINEを手売りしていたので、「なぜ、自分の本ではなく人の本を売るのか?」と聞かれることがあったが、めちゃくちゃシンプルに「自分がよいと思った本を、誰かにも読んでもらいたい」からだ。読んでもらいたいから、届けたい。本屋さんの気持ちがこれ以上なくわかる気がした。
零細ビジネスでありながら、本を売ることを生業にしている本屋さんに共感しつつ、だからこそやっぱり大変すぎると半泣きで、感謝の気持ちしかない。好きだからというだけで、できる仕事じゃないよなと。
そんな気持ちを(勝手に)込めて、『1003(センサン)とわたし』というフリー冊子を作ったことがある。8ページほどの小さな冊子で限定100部、わたしのファーストZINE。中面は、好きな1003に並んでいた好きな本をひたすら推すという内容だ。

デザインと印刷は神戸・王子公園にある「古本屋ワールドエンズ・ガーデン」の小沢悠介さんにお願いしました
思えばこのレターでも、わたしが実人生で助けてもらった本や著者から受けた恩恵、本屋さん受け取ったものを、「好きです」「ありがたいです」とひたすら書いている気がする。ゲンナイ本も実はちょっとしたブックガイドにもなっていて、各章の巻末に登場する本のリスト(25冊ほど)を掲載している。
自分が贈りもののように受け取ったものを、誰かにもパスしたい。そんな思いがこのレターを書くときに、わたしのなかに強くある。読むあなたに聞いてもらえるだけでもいいからって気持ちで。
このレターはWebでもほぼ公開されるので、ある意味、読み手を限定しない。例えば本の場合だと、書かれているテキストは、モノとして入手しないと目に入れられない。でも、インターネットの世界にあれば、たくさんの人に読んでもらえる可能性が高くなる。しかも無料で。
このレターを始めるにあたって、theLetterの濱本青年とやり取りしたとき、最も印象に残っている話がある。濱本青年が奨学金をもらっていた苦学生時代に、本は高価でそうそう買えなかったこと。でも、インターネットで読める良質なテキストがあったから、自分の今がある、と彼が話してくれた。だから、テキストを大事に思っている。本も大好きですと。
わたしもそうだ。過去のレターで何度か触れている、武道家で思想家の内田樹先生のブログをきっかけに、哲学なんて100億光年も遠かったわたしなのに、自分の人生について考えたり、「よく生きる」ためのヒントを惜しげもなくいただいている。
ネットの波のなかでたまたま辿りついて、「ふと」読み始めることができて、超高品質なのに無料でいくらでも読めたからこそ、自分が知ることができたことの多さ、その幸運……。そこから辿り着いた本の多さも、改めて思い返さずにいられない。
尊敬する師匠のテキストと、わたしのテキストを同列に語ることは穴があったら……としか言いようがないし、そこまでの力があるかは保留にしたいけれど、自分が助けてもらったように、自分が書いたものが誰かの役に立てたらと切に願って、このレターも書いている。
「書く人」の全員がそうじゃないだろうか。「なぜ書くのか」って聞かれたら、「自分が書かれたものに、誰かが書いたものに助けられたから」ってこと。
わたしの本業はライターで、原稿を書いて原稿料をもらい、たまに編集も担当して編集費をもらうこと。最近では、大学で授業を担当することになったり、講演でお話したり。小さな収入が重なってなんとか食べている(不調のときは夫に助けてもらった)。
まとまったものは書籍の印税かもしれない。現在も2冊並行して関わっているが、本をつくるのは年単位の長期戦で、出版業界の外の人にドン引きされるほど印税は少なくて、原稿料だけで食べられる作家は本当に限られた人だけ(よく言われる話だが、一ミリもオーバーではない)。
それでもわたしは「本」という形にこだわっていくつもりだ。自分が本に助けられたから。できれば図書館に収蔵してもらえるような、ものとしてもしっかり作られた一冊をじっくりじっくり生んでいきたい。そうした本を生み出す編集者、校正者、デザイナーとチームを組める出版社と一緒に。そのために他の仕事をしている気もする。
本に関わって、できれば本を売って本屋さんにも利益を出してもらって、本屋さんが少しでも減らないように、あるいはお店を維持できるように自分もなにかしたい。Webでもこのレターのように「紙で残しておきたい」と思える文章を書いて、「受け取ってよかった」と思ってくれる人に届けたい。
矛盾しているように聞こえるかもしれないけれど、わたしのなかではすっと道筋が通って、そのために可能な方にはこのレターの執筆をサポートしてもらおうと考えたのです。
「インターネット」「紙媒体」、「有料」「無料」、「新刊」「古本」、「書店」「図書館」などを二項対立で語るのではなく、むしろ共存できる方法があるんじゃないかな。その方がゆたかなんじゃないかな。そんな「テキストの循環」をこのレターで実践しつつ、「書いて」「読んで」「話して」「聞いて」を繰り返し、なにかよい道を開いていきたいと思っています。
レターを読んでくれている皆さんと一緒に。
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改めて、今日は読んでくださっている皆様にお願いがあります。
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うまくいけば、サポートメンバーや読者の方の地元にある本屋さんを訪れて、ゲンナイ会を開催することだってできるかもしれません。
そんなふうに本、本屋さんをはじめとした「本のある場」を循環する一助を担っていくべく活動します。
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今日、2月12日は実はわたしの誕生日なんです。
これから先のいつか、「2025年の誕生日にレターのサポート登録をお願いしたんだなあ」って思い出せたら面白いな。そんなことを思いついたのでした。
次回は1/17(月)にお届けする予定です。
皆さん、またお会いできますように。

マイ2024年の一冊でもある内田樹著『図書館には人がいないほうがいい』(朴東燮 編訳/アルテスパブリッシング)。司書、図書館員、ひとり書店、ひとり出版社、書物は商品ではない、「読む」ことの意味や本の未来、図書館の本質と使命……タイトルの意味がわかった瞬間も気持ちがいいくらい面白い。ぜひお読みください
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